仏教の真髄(悟りとはどういうことか? 悟りに至る道)

悟りとはどういうことか?

不死の門
釈尊が悟りを開かれた後、すぐには説法を始められませんでした。なぜなら、釈尊が悟られたことは世間一般の常識とはあまりにもかけ離れていて、誰も信じないだろうと思われたからです。しかし、生老病死に苦しむ人々を救済するには仏法を布教する以外に方法はないと判断され、布教を始められました。そして「不死の門は開かれた」と宣言されました。

輪廻転生の否定
不死というと魂が死後の世界を生きたり、輪廻転生することを思い浮かべるかもしれませんが、そうではないのです。釈尊は悟りを開き真理を知ると輪廻の輪から解脱(げだつ)すると説かれました。解りやすく言うと死後の世界も輪廻転生もありませんということです。

諸法無我
では不死とはどういうことか?
答えは諸法無我、解りやすく言うと「私はいない」ということです。私がいないのだから死もあるはずが無いのです。
私がいないと言うと驚かれる方もいると思いますが、仏教では全ての事は因と縁によって起こっていると説きます。起こるべき事だけが起きて、それ以外の事は絶対に起きません。つまり、個人の自由な意思なんてものはありません。これが無我です。

脳科学では無我を証明する実験が行われました。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校のリベット博士の実験で人が行動を起こすときに、行動しようと意識する0.35秒前に脳内には既に電気信号(運動準備電位)が発生している事が解りました。そして行動しようと意識してから0.2秒後に行動が起こります。この実験から解ることは行動しようと意識した時には既に行動することが決まっていたという事です。つまり脳が架空の私が行動しようと意思決定したというストーリーをでっち上げているということです。

諸法無我について、あらゆるものは相互に依存し合って存在しているから独立して存在する「我」は無いといった説明をよく見かけます。しかし、仏教の真理はそのような頭で考えたことではないのです。むしろ、頭で考えた「思いの世界」から抜け出して「ありのままの世界」を実際に体験した中にしか真理は無いのです。この「ありのままの世界」のことを仏教用語で諸法実相または真如と言います。

瞬間瞬間の体験をよく観察すると私に関しては手の感覚があっただけだとか、足の感覚があっただけといったように断片的な体験しか無いはずです。この断片的な感覚を寄せ集めて、頭の中で私がいると妄想しているのです。つまり、真理は私は「思いの世界」にいるだけで実際にはいなくて、ただ体の断片的な感覚があるだけなのです。禅で無我の境地を目指して修行するのも私はいないからです。

空(くう)
私はいないと言われても、ではこの体は何だ? といった疑問が生じると思います。
その答えは般若心経に「色即是空 空即是色」と書いてあります。これは「肉体は実体ではなく、実体のないものを肉体であるかのように見ているのです」という意味です。空というのは実体ではないという意味です。
あらゆるものは実体ではないのに、なぜ私達の目には人や動物やいろいろな物が見えるのか?
これは、私達が人間特有の認識パターンでものを見ているからなんです。生まれたばかりの赤ん坊は一切の偏見的認識パターンを持っていませんが、大人達があなたは人であり、○○ちゃんという名前だよとか、生き物と生き物でないものがあるとか教えるわけです。これが人間特有の認識パターンです。つまり、生き物と生き物でないものを分別する心があたかも生き物がいるかのような妄想を生み、空間と物を分別する心が物が存在するかのような妄想を生むのです。般若心経の説く空の世界では私はいないし、生き物もいないし、物もありません。あるのは今この瞬間の全体だけです。
なぜ今この瞬間なのか?
答えは、過去は人の記憶という「思いの世界」の中にしか無いからです。未来もこうなるだろうという人の想像した「思いの世界」にしかないからです。
真理の世界である「ありのままの世界」には過去も未来もありません。

唯識
私はいないし、物も無く、今この瞬間の全体だけの世界とは何か?
仏教ではただ識だけがあると説きます。識とは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の八つです。眼識から意識までの六つが私達が普通に意識と思っているものです。末那識と阿頼耶識が潜在意識です。末那識とは我執(我があると思い込み、その我にこだわること)のことです。阿頼耶識とは行為の影響(種子)が溜まる識であり、認識は溜まった種子の影響を受けます。
要するに、この世とは実体があるわけではなく、ただ心があるだけということです。
映画館で映画を見ているようなものです。そこにドラマが展開しているように見えますが、実体は何も無くあるのはスクリーンだけです。このスクリーンが識にあたります。ただ識だけがあるという意味で唯識と言います。識はそれ自体は認識できませんが、あらゆるものを映すことで映しているスクリーンのような識があると解ります。
ドラマが展開しているように見えるのは思考が作り出したストーリーであり、実体ではありません。全ての現象は因と縁によって自然に起こっているのです。私のせいでもなければ誰のせいでもありません。起こるべくして起こっているだけなのです。そこに善悪はありません。だから瞑想時には価値判断をするなと言われるのです。
そして、識だけがあるということは、今この瞬間に実際に体験していることだけがあって、体験していないことは無いということです。例えば、私たちは今見えている世界について、見えていない遠くまで続いてずっと広がっていると思い込んでいますが、実は見えていない部分はありません。識だけしか無いということはそういうことです。
あなたが歩いているとまわりの景色が、歩くに伴って後ろに動いて見えるのを実際には動いていないがそう見えてえいるだけだと思い込んでいます。しかし、それは正しくありません。自分の外に架空の世界が在る事を妄想しているからそのように勘違いをするのです。正しくは景色が錯覚的に動いて見えるのではなく、今この瞬間が動いているのです。つまり、私が生きているのではなく、今この瞬間が生きているのです。今この瞬間が生きていると本当に感じられた時、その命こそが仏の命です。そして、生死を超越した仏の命に成りきることが悟りです。

悟りに至る道

普通の人でも悟りは開けます。仏教では誰にでも仏性があると説いています。
仏性というのは仏としての性質です。
本当はもう悟りの心はあるのに思考の黒雲に覆い隠されて見えないだけです。
ちょうど雨雲の向こうに青空があるようなものです。
悟りに至るには八正道の正念と正定が特に重要で、必ず両方を実践する必要があります。

正念
正念とは八正道の正念です。
正念の原語はsamma-sati と言って、サティ とは気づくという意味です。何に気がつくのかというと今この瞬間の自分に気づくということです。そして、思慮分別や価値判断を交えずにただ気づくことが大事です。
今はやりのマインドフルネスも正念の瞑想です。
禅では動中に正念の工夫をせよと教えられ、最終的には正念の相続一貫といって朝起きてから夜寝るまでずっと正念の状態でいることを求められます。
やり方は簡単です。まず呼吸に意識を向けます。呼吸はコントロールする必要はありません。普通の呼吸を意識して下さい。後は、雑念を払って今やっていることに集中するだけです。
これを最初は1時間とか短時間でもいいですが、最終的には1日中マインドフルな状態を維持します。

正定
正定とは八正道の正定です。
坐禅をして集中力を高め、三昧の境地に達することである。三昧境に入ると人間特有の偏見的認識パターンから抜け出すことができ、真理の世界を体験することができます。これを見性体験といい、この体験によってのみ悟りは開けます。
坐禅は絶対に1日も欠かさずに毎日必ず最低でも45分以上することが要求されます。
臨済禅では効率よく三昧に入るために公案という問題をもちいます。

更に詳しく学びたい方は、悟りについてと悟りに至る方法についてを小説にしましたのでご参照下さい。
http://ncode.syosetu.com/n8482cu/


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仏教の基礎知識(般若心経編)

ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう
仏説摩訶般若波羅蜜多心経

かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
観自在菩薩(観音菩薩)は、悟りを開くための修行に明け暮れておられた時、

しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空
五蘊(肉体と精神活動のすべて)は皆「空(くう)」であることを悟られ、
※五蘊=色・受・想・行・識の五つのこと。色=(肉体)・受想行識(精神活動の四つの段階、つまり精神活動の全て)
※空(くう)=実体ではないこと。


どいっさいくやく
度一切苦厄
一切の苦しみから衆生を救済される道を示されました。

しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
舎利子よ、肉体は「空」に異ならず、「空」は肉体に異ならない。
つまり、肉体は「空」であり、「空」を肉体であるかのように見ていたのだ。

※舎利子=お釈迦様の十大弟子のひとり

じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ
受想行識亦復如是
受・想・行・識の各精神活動も、また同じく、「空」である。

しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
舎利子よ。この世にあるすべてのものには実体はありません。つまり「空」なのです。
生じることもなく滅することも無く、汚れもせず清らかにもならず、増えることも無く減ることもありません。


ぜこくうちゅう むしき むじゅそうぎょうしき
是故空中 無色 無受想行識
故に、全てが「空」である真理の世界には、肉体も精神活動もありません。

むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
目も耳も鼻も舌も身体も精神もなく、(目から見える)形も(耳から聞こえる)声も(鼻で感じる)香りも(舌で感じる)味も(身体が感じる)触感も(精神が)感じ取ることもありません。

むげんかい ないし むいしきかい
無眼界 乃至 無意識界
眼界から意識界に至る十八界もありません。

むむみょう やく むむみょうじん ないし むろうし やく むろうしじん
無無明 亦 無無明尽 乃至 無老死 亦 無老死尽
無明が原因で老死に至る十二因縁の教えもありません。
※無明=真理を知らないこと

むくしゅうめつどう むち やく むとく
無苦集滅道 無智 亦 無得
苦・集・滅・道の四諦(四聖諦)の教えもありません。
また、教えを知ることもなく、悟りを得ることもありません。


いむしょとくこ ぼだいさった えはんにゃはらみたこ
以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多故
よって何も得る事がないという事を、菩薩(修行者)は、真実に目覚める智慧に至る修行によってあるがままに観ることができるから、

しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんとうむそう くぎょうねはん
心無圭礙 無圭礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
心に障りがなく、心に障りがないから、恐怖を感じず、一切の迷いから離れて、安らぎの極致へと到りました。

さんぜしょぶつ えはんにゃはらみたこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
三世の仏さまも、このような智慧によって、完全なる悟りを開かれました。
※三世=過去・現在・未来
※阿耨多羅三藐三菩提=完全な悟りを開いた状態

こちはんにゃはらみた ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ
故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
悟りの智慧に至る呪文は、すばらしい呪文であり、すぐれた呪文であり、この上ない呪文であり、他に並ぶものがない呪文であり、

のうじょいっさいく しんじつふこ
能除一切苦 真実不虚
一切の苦しみを取り除くことができる、真実にして虚妄ならざるものです。

こせつ はんにゃはらみたしゅ そくせつしゅわつ
故説 般若波羅蜜多咒 即説咒曰 
では悟りに至る智慧の呪文を説きましょう。その呪文は、

ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼーじーそわかー
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
「ギャーテイ ギャーテイ ハーラーギャーテイ ハラソウギャーテイ ボージーソワカー」

はんにゃしんぎょう
般若心経


「空」とはどういうことか?
 人間の世界は色(しき)の世界です。人やいろいろな物がある世界です。これに対して、空(くう)の世界というのは悟りの世界です。今この瞬間の全体だけがあって、人も物も何も無い世界です。
 人は生まれたときは固定観念や価値感をもっていなかったのですが、成長するにつれて人間世界の固定観念や価値感を学んでいきます。そしてこの固定観念や価値感が無意識的な思考として人間世界、つまり色(しき)の世界を作り出しているのです。この色(しき)の世界の中では自分のことを人間だと思い込み、いずれ死ぬ運命にあると感じます。でも、本当はそうじゃないんだよというのが仏教の空(くう)の教えです。

より理解を深めたい方は下記URLをご参照下さい。
「空」を徹底的に解りやすく解説しました。
http://ncode.syosetu.com/n3313cy/

仏教の基礎知識(禅宗編)

本当の仏教の真髄を継承するのは禅
仏教は大きく分けるとスリランカ・東南アジアの上座部仏教とチベットの密教と中国・日本の大乗仏教に大別されます。
また、日本の仏教も多くの宗派に分かれています。
では、どれが本当の仏教なのか?
その答えは釈尊が悟りを開かれた状況を考えれば解ります。
釈尊は菩提樹の下で七日間の坐禅をして悟りを開かれました。つまり、禅こそが本来の仏教のすがたなのです。

どうして禅では多くの人達が悟りを開くことができるのか?
禅では出家しなくても、つまり在家のままでも多くの人達が悟りを開いています。
どうして禅だけが悟りに至るのか?
その答えは八正道の正念にあります。
大乗仏教の六波羅蜜には正念がありません。民衆に布教するときに、できるだけやさしい仏教にする為に省かれたのです。
しかし、正念の修業を行わないと悟りに至ることは難しいのです。
禅には動中の工夫と呼ばれる正念の修行があるので多くの人達が悟りに至るのです。

禅の歴史
師である般若多羅より嗣法(悟りの境地に至り仏法の正当な継承者として印可を受ける事)し、仏教の第二十八祖となった達磨大師は、西暦520年に禅を伝えるために、インドから中国に布教に行き、嵩山少林寺にて弟子の育成にあたりました。これが禅の始まりです。
その後、臨済義玄(? - 867年)によって臨済宗が創宗された。曹洞宗の「黙照禅」に対して、臨済宗は公案に参究することにより見性(真理を直接体験すること)しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴です。つまり、臨済宗は公案によってより効率良く悟りに至ることができる進化した禅なのです。

禅を行っていた有名人
古くは鎌倉幕府の執権北条氏、室町幕府の足利将軍から、茶道の千利休、剣道の柳生宗矩・山岡鉄舟、俳人の松尾芭蕉、小説家の夏目漱石、また最近の人ではアップルのスティーブンジョブスなど一流の人は座禅をしている場合が多いですよ。それだけ禅はすばらしいということです。ちなみに、スティーブンジョブス氏以外は全員が臨済宗です。

禅とマインドフルネス瞑想
Googleが社員の教育プログラムにマインドフルネス瞑想を採用したことで、インテル・フェイスブックなどの企業で採用が相次ぎ、今世界がマインドフルネス瞑想に注目しています。
では、マインドフルネス瞑想と禅の関係は?
マインドフルネス瞑想を開発したのはマサチューセッツ大学のジョン・カバット・ジン教授です。同教授は国際観音禅院の崇山行願に師事し禅の修行を行いました。その後、ケンブリッジ禅センターの創設メンバーとなるなど、かなり本格的に禅の修行をされたようです。
マインドフルネス瞑想はうつ病などの精神疾患の治療に禅をベースにヨガとヴィパッサナー瞑想も取り入れて創り出した瞑想です。つまり、マインドフルネス瞑想は禅などから宗教性を排除して作られた瞑想です。

坐禅
臨済宗と曹洞宗では坐禅に対する考え方が違います。
臨済宗では悟りを開くために坐禅をします。初めは数息観という呼吸を数える坐禅を行い、ある程度上達すると公案禅に移行します。
曹洞宗では坐禅することが悟りだから、ただ坐りなさいと言います。坐禅は随息観という、ただ呼吸を観る坐禅を行います。

坐禅の効果
坐禅にはいろいろな効果があります。
①ストレスが減り、免疫力が上がる
②集中力が高まる
③動じない心を養成する
など多くの効果がありますが、坐禅はそういった効果を目指すのではなく、ただ坐ることが大事だそうです。

作務
禅宗では作務(さむ)をとても重視します。作務とは掃除のことです。でも、ただの掃除ではありません。坐禅をしている時と同じ心で行う動く瞑想です。
禅宗では動中の工夫といって、1日中を坐禅をしている時と同じように呼吸に意識を向け、雑念を払い、今していることに集中します。

公案
臨済宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のこと。「禅問答」のことです。
有名な公案として「隻手の声」「狗子仏性」などがあります。
「隻手の声」
(両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい)
「狗子仏性」
(犬にも仏性があるでしょうか? 趙州和尚は答えた。「無」)
普通問題に取組む場合は回答者(主体)が問題(客体)に取組みます。しかし、禅の公案では主体と客体の分離を解消して一如の世界(悟りの世界)に至ることが目的なので、公案に成り切れと教えられます。そして、公案に成り切ることができたときに悟りが開けます。

三昧
坐禅において精神集中が極まり、自我意識・価値判断・固定観念・思考などが停止した状態のこと。
なぜ三昧の体験が必要なのか?
それは、私達は自我意識・価値判断・固定観念・思考などが作り出した思い込みの世界に生きていて、ありのままの真理の世界を見ることができないからです。

不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏
禅とは何か? その答えは「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」である。
意味は経典の中に真理は無く、仏法の真髄は師から弟子へと以心伝心で受け継がれるものだ。だから、自己の本性を究明すべく、ひたすら坐禅することによって真理を直接体験し、悟りに至るのが禅である。
釈尊は経典を学べば仏法が解ると誤解されるのを恐れて、釈尊自身は経典を執筆されませんでした。
要するに経典をいくら読んで勉強しても悟りに至る事は無いから、坐禅をして三昧の境地に至り、真理を直接体験(見性体験)することが重要であり、これ以外に悟りに至る方法は無いということです。

照顧却下
禅寺の玄関には「照顧却下」と書いた札が掲げてあることが多い。この言葉には二つの意味があって、一つ目は「履物を脱いだら揃えなさい」という意味です。そして、もう一つの意味は「自己の本性を悟るために自分自身をよく見なさい」という意味です。
「自分自身をよく見なさい」と言われても、どう見ればよいのか途方に暮れますよね。そこで、ヒントを探すと、臨済宗の開祖である臨済禅師は「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す」という有名な言葉を残されました。この言葉は自己の本性を悟るためのヒントです。
私達は誰でも、「私」が花を見たり、月を眺めたり、鳥の声を聞いたり、あるいは氷を冷たいと感じたりしていると思っています。しかし、本当はそうではないのです。
「私」という肉体を持った人間が花を見たり月を眺めたりするのではないということです。むしろ逆で、花や月を見ることによって自己が形成されるのです。例えば、今朝は寒いなあと思ったとき、寒いと感じる「本来の自己」ができる。そのように「本来の自己」は、一瞬、一瞬、違った内容として生き続けている。決して「私」というような確固として不動な実体はない。「本来の自己」は「存在」ではなくて「生成」であり、いつも現在進行形なのです。

坐禅会情報
禅は坐禅の実践が大事ですから、坐禅会情報を載せておきます。
http://zen468.blog.fc2.com/blog-entry-32.html

仏教の基礎知識(大乗仏教編)

大乗仏教になると四諦が三法印になり、八正道が六波羅蜜になります。

三法印(仏教の一番根本の真理)
諸行無常
諸行無常と言うといずれ年をとって死ぬ運命にあることだと一般には思われていますが、じつは全く違います。諸行無常には続きがあります。「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」と涅槃経にあります。「諸々の事象は変わり続ける。これ生滅の法である。生滅を滅し終わったのが悟りの境地であり、心の平安に至る」という意味です。生滅の法というのは例えば、私達が物を見たときに、瞬間的に心に映像が生じます。この映像は瞬間的に生じて、次の瞬間にはもう滅しているのです。このように瞬間瞬間に次々と連続して映像が生じることで目で見た世界が心の中に生じます。これはちょうど映画を見ているのと似ています。映画は何万枚もの映像を連続して見せることで、まるで映像が動いているかのように見せます。このようにして心の中に動く映像の世界が作られることを生滅の法というのです。そして、瞬間的に生滅しているということは固定した実体の世界なんか無いんだということです。「生滅を滅し終わった」というのは固定した実体の世界が無いと気づくことで執着するものが元々無かったと悟り、煩悩が無くなることです。これが悟りであり、真の心の平安です。

諸法無我
釈尊が悟られた究極の真理がこの「諸法無我」です。
解りやすく言うと「私はいない」ということです。
諸法無我について、あらゆるものは相互に依存し合って存在しているから独立して存在する「我」はないといった説明をよく見かけます。確かに相互に依存はしています。しかし、仏教の真理はそのような頭で考えたことではないのです。むしろ、頭で考えた「思いの世界」から抜け出して「ありのままの世界」を実際に体験した中にしか真理はないのです。瞬間瞬間の体験をよく観察すると私に関しては手の感覚があっただけだとか、足の感覚があっただけといったように断片的な体験しか無いはずです。この断片的な感覚を寄せ集めて、頭の中で私がいると妄想しているのです。つまり、真理は私は「思いの世界」にいるだけで実際にはいなくて、ただ体の断片的な感覚があるだけなのです。

涅槃寂静
諸行無常・諸法無我を悟ると執着すべき我は無かったと気づき、我執を離れ、苦を生んでいた煩悩の炎が消え去る。一切の苦から解放された境地。

普通はいろいろな物や生き物や空間があると思っているだろうが、本当に在るのは変化する全体だけです。物と生き物、あるいは物と空間を区別する心がいろいろな物や生き物や空間があるという思い込みを生むのです。人は自分を人間だと思い、まわりの世界から独立した存在だと思い込んでいますが、本当は全体から分離した個人は存在しません。私が存在しないという事は年老いたり、死んだりすることもないという事です。全ては思慮分別が生み出した妄想なのです。このことが解ると苦の原因である無明や煩悩がなくなり、あらゆる苦しみから解放されます。

六波羅蜜
布施 : 財施(金品の喜捨)
    法施(仏法について教える)
    無畏施(労力や慈しみの心で他人につくす事)
持戒 : 在家の場合は五戒を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
忍辱 : 耐え忍ぶこと。
精進 : 努力すること。
禅定 : 坐禅などの瞑想をして三昧の境地に至ること。
智慧 : 別名、般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)ともいいます。自己の本性や世界の真実の姿を見抜く悟りの智慧を得ることが、仏道修行の目標なのです。前五波羅蜜は、この般波羅蜜を成就するための手段である。

※布施を行う上での注意事項
布施は我執(自我が実在すると考えて執着すること)を離れるためにするのであるから、損得感情や見返りを求める心を持つとかえって我執を強める結果となり逆効果である。
当たり前のことをやってるのだという平常心で行うことが大事です。

大乗仏教になると仏道の実践は八正道に替わって六波羅蜜になりますが、実は六波羅蜜は不完全です。八正道の正念が無いからです。
禅宗では動中に正念の工夫をせよと教えられ、最終的には正念の相続一貫といって朝起きてから夜寝るまでずっと正念の状態でいることを求められます。
悟りに至るためには正念と禅定が特に大事で、布施・持戒・忍辱・精進は補助的なものです。

無畏施(無財の七施)
眼施(がんせ) :    優しい眼差しで人に接すること。
和顔施(わがんせ) :  柔和な顔、明るい顔で人に接すること。
言辞施(ごんじせ) :  優しい言葉をかけること。
身施(しんせ) :    労働など身をもって布施すること。
心施(しんせ) :    心の底から人を思いやる慈悲心を施すこと。
床座施(しょうざせ) : 譲ること。例えば、電車の中で体の不自由な人に自分の席を譲ることなどや、人に道を譲ること。
房舎施(ぼうじゃせ) : 例えば、困っている旅人に我が家を一夜の宿に提供したり、休憩の場を提供したりすることなど。もてなしの心。

五戒
不殺生戒(ふせっしょうかい) : 生き物をみだりに殺してはならない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい) : 盗みを犯してはならない。
不邪淫戒(ふじゃいんかい) : 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
不妄語戒(ふもうごかい) : 嘘をついてはならない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい) : 酒を飲んではならない。

仏教の基礎知識(初期仏教編)

仏教とは四諦で仏道修行の目的を示し、十二因縁で苦の原因分析をし、八正道の実践で悟りを開き、苦を解決する教えです。

四諦(四聖諦)
苦諦 人生は思い通りにならないので苦である。(四苦八苦)
集諦 その苦の原因は無明に基づいた行動の集積である。(十二因縁)
滅諦 苦の原因である無明を滅した境地が悟りである。
道諦 その悟りに到達する方法が仏道(八正道)である。

四苦八苦
仏教における苦の分類。 苦とは「思うようにならない」ことから生じる。
根本的な苦をの四苦とし、 根本的な四つの苦に加え、以下の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。
愛別離苦(あいべつりく) 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく)    求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

十二因縁
無明 : 真理を知らないこと
: 行動の集積
: (架空の)自我意識
名色 : 「名」は無形のものという意味で「心」、「色」は有形のものという意味で「身体」
六入(六処) : 眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官
: 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象(色・声・香・味・触・法)が触れること。
: 感覚を感受すると、好き・嫌いというような感情が起こってきます。
: 渇愛
: 所有欲、執着
: 執着により生じる迷いの存在
: 迷いの世界に生まれること。つまり人として生きていると思い込むことです。
老死 : 「老い」と「死」

無明という誤ったものの見方に基づいた行動が積み重なった結果、自我意識が生まれ、心と身体が生まれ、感覚を感受すると好きや嫌いという感情が生まれ、渇愛や執着が生まれることで、迷いの心が生じ、迷いの世界に生きている人間だと思い込み、年老いて死ぬことになる。しかし、無明という誤ったものの見方に基づいた行動が積み重なって生じた自我意識・心と身体・感情・執着・生死は全て根本が間違っている為に妄想である。つまり苦の根本原因である無明を打ち破れば執着も無くなり、人として生きているという妄想も無くなり、年老いたり死んだりするという妄想も無くなり、全ての苦しみから解放される。

八正道
正見
固定観念にとらわれずに、ありのままに見ること。このありのままは普通の人が思うありのままとは全く異なるもので、修行によって「正念」と「正定」を真剣に実践して三昧の境地に至って初めて可能となる。

正思惟
以下の三つ
無害心:人や生きもの命をまもること。生きとし生けるものに対して慈しみを持つこと。
無瞋恚:怒らないこと。
無貪欲:むさぼらないこと。

正語
正語とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。要するに自己中心的な言動はだめということ。

正業
正思惟(無害心・無瞋恚・無貪欲)の実践

正命
正しい仕事。殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むこと。

正精進
正しい努力をする。ふつうの努力と違って仏教では自分のいま持っている悪いところを消すための努力。また未だやったことのない悪いことをこれからも絶対にしないための努力、いけないことはこれからもしないという努力、さらには自分の持っているいいところはこれからもどんどん伸ばしていこうとする努力、また今までしなかったいいことをこれからは積極的にやっていこうとする努力、努力にもこうした四つの努力の道があるのです。精進とは、いい人間になるため、より立派な人間形成への努力ということです。

正念
正念の原語はsamma-sati と言って、サティ とは気づくという意味です。何に気がつくのかというと今の自分に気がつくということです。瞬間瞬間の自分に気づくこと。「四念処」の実践。今はやりのマインドフルネスです。

正定
坐禅をして正しい集中力(三昧)を完成することである。この「正定」と「正念」を真剣に実践することで見性体験という悟りの体験に至ります。この体験によってのみ悟りは開けます。悟りが開けると無意識的な思考が作り出した思い込みの世界(迷いの世界)を離れ、ありのままの世界を観ることができるようになり、「正見」が得られる。

四念処
仏教における悟りのための4種の観想法の総称。「四念処観」(しねんじょかん)、「四念住」(しねんじゅう)とも言う。「三十七道品」の中の1つ。
釈尊の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教瞑想の「止観」(サマタ瞑想・ヴィパッサナー瞑想)の内、「観」(ヴィパッサナー瞑想)の中核を成す観想法である。
身念処(体の観察)
受念処(感覚の観察)
心念処(心の観察)
法念処(心の対象の観察)
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