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仏教の真髄(悟りとはどういうことか? 悟りに至る道)

悟りとはどういうことか?

不死の門
釈尊が悟りを開かれた後、すぐには説法を始められませんでした。なぜなら、釈尊が悟られたことは世間一般の常識とはあまりにもかけ離れていて、誰も信じないだろうと思われたからです。しかし、生老病死に苦しむ人々を救済するには仏法を布教する以外に方法はないと判断され、布教を始められました。そして「不死の門は開かれた」と宣言されました。

輪廻転生の否定
不死というと魂が死後の世界を生きたり、輪廻転生することを思い浮かべるかもしれませんが、そうではないのです。釈尊は悟りを開き真理を知ると輪廻の輪から解脱(げだつ)すると説かれました。解りやすく言うと死後の世界も輪廻転生もありませんということです。

諸法無我
では不死とはどういうことか?
答えは諸法無我、解りやすく言うと「私はいない」ということです。私がいないのだから死もあるはずが無いのです。
私がいないと言うと驚かれる方もいると思いますが、仏教では全ての事は因と縁によって起こっていると説きます。起こるべき事だけが起きて、それ以外の事は絶対に起きません。つまり、個人の自由な意思なんてものはありません。これが無我です。

脳科学では無我を証明する実験が行われました。
カリフォルニア大学サンフランシスコ校のリベット博士の実験で人が行動を起こすときに、行動しようと意識する0.35秒前に脳内には既に電気信号(運動準備電位)が発生している事が解りました。そして行動しようと意識してから0.2秒後に行動が起こります。この実験から解ることは行動しようと意識した時には既に行動することが決まっていたという事です。つまり脳が架空の私が行動しようと意思決定したというストーリーをでっち上げているということです。

諸法無我について、あらゆるものは相互に依存し合って存在しているから独立して存在する「我」は無いといった説明をよく見かけます。しかし、仏教の真理はそのような頭で考えたことではないのです。むしろ、頭で考えた「思いの世界」から抜け出して「ありのままの世界」を実際に体験した中にしか真理は無いのです。この「ありのままの世界」のことを仏教用語で諸法実相または真如と言います。

瞬間瞬間の体験をよく観察すると私に関しては手の感覚があっただけだとか、足の感覚があっただけといったように断片的な体験しか無いはずです。この断片的な感覚を寄せ集めて、頭の中で私がいると妄想しているのです。つまり、真理は私は「思いの世界」にいるだけで実際にはいなくて、ただ体の断片的な感覚があるだけなのです。禅で無我の境地を目指して修行するのも私はいないからです。

空(くう)
私はいないと言われても、ではこの体は何だ? といった疑問が生じると思います。
その答えは般若心経に「色即是空 空即是色」と書いてあります。これは「肉体は実体ではなく、実体のないものを肉体であるかのように見ているのです」という意味です。空というのは実体ではないという意味です。
あらゆるものは実体ではないのに、なぜ私達の目には人や動物やいろいろな物が見えるのか?
これは、私達が人間特有の認識パターンでものを見ているからなんです。生まれたばかりの赤ん坊は一切の偏見的認識パターンを持っていませんが、大人達があなたは人であり、○○ちゃんという名前だよとか、生き物と生き物でないものがあるとか教えるわけです。これが人間特有の認識パターンです。つまり、生き物と生き物でないものを分別する心があたかも生き物がいるかのような妄想を生み、空間と物を分別する心が物が存在するかのような妄想を生むのです。般若心経の説く空の世界では私はいないし、生き物もいないし、物もありません。あるのは今この瞬間の全体だけです。
なぜ今この瞬間なのか?
答えは、過去は人の記憶という「思いの世界」の中にしか無いからです。未来もこうなるだろうという人の想像した「思いの世界」にしかないからです。
真理の世界である「ありのままの世界」には過去も未来もありません。

唯識
私はいないし、物も無く、今この瞬間の全体だけの世界とは何か?
仏教ではただ識だけがあると説きます。識とは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)の八つです。眼識から意識までの六つが私達が普通に意識と思っているものです。末那識と阿頼耶識が潜在意識です。末那識とは我執(我があると思い込み、その我にこだわること)のことです。阿頼耶識とは行為の影響(種子)が溜まる識であり、認識は溜まった種子の影響を受けます。
要するに、この世とは実体があるわけではなく、ただ心があるだけということです。
映画館で映画を見ているようなものです。そこにドラマが展開しているように見えますが、実体は何も無くあるのはスクリーンだけです。このスクリーンが識にあたります。ただ識だけがあるという意味で唯識と言います。識はそれ自体は認識できませんが、あらゆるものを映すことで映しているスクリーンのような識があると解ります。
ドラマが展開しているように見えるのは思考が作り出したストーリーであり、実体ではありません。全ての現象は因と縁によって自然に起こっているのです。私のせいでもなければ誰のせいでもありません。起こるべくして起こっているだけなのです。そこに善悪はありません。だから瞑想時には価値判断をするなと言われるのです。
そして、識だけがあるということは、今この瞬間に実際に体験していることだけがあって、体験していないことは無いということです。例えば、私たちは今見えている世界について、見えていない遠くまで続いてずっと広がっていると思い込んでいますが、実は見えていない部分はありません。識だけしか無いということはそういうことです。
あなたが歩いているとまわりの景色が、歩くに伴って後ろに動いて見えるのを実際には動いていないがそう見えてえいるだけだと思い込んでいます。しかし、それは正しくありません。自分の外に架空の世界が在る事を妄想しているからそのように勘違いをするのです。正しくは景色が錯覚的に動いて見えるのではなく、今この瞬間が動いているのです。つまり、私が生きているのではなく、今この瞬間が生きているのです。今この瞬間が生きていると本当に感じられた時、その命こそが仏の命です。そして、生死を超越した仏の命に成りきることが悟りです。

悟りに至る道

普通の人でも悟りは開けます。仏教では誰にでも仏性があると説いています。
仏性というのは仏としての性質です。
本当はもう悟りの心はあるのに思考の黒雲に覆い隠されて見えないだけです。
ちょうど雨雲の向こうに青空があるようなものです。
悟りに至るには八正道の正念と正定が特に重要で、必ず両方を実践する必要があります。

正念
正念とは八正道の正念です。
正念の原語はsamma-sati と言って、サティ とは気づくという意味です。何に気がつくのかというと今この瞬間の自分に気づくということです。そして、思慮分別や価値判断を交えずにただ気づくことが大事です。
今はやりのマインドフルネスも正念の瞑想です。
禅では動中に正念の工夫をせよと教えられ、最終的には正念の相続一貫といって朝起きてから夜寝るまでずっと正念の状態でいることを求められます。
やり方は簡単です。まず呼吸に意識を向けます。呼吸はコントロールする必要はありません。普通の呼吸を意識して下さい。後は、雑念を払って今やっていることに集中するだけです。
これを最初は1時間とか短時間でもいいですが、最終的には1日中マインドフルな状態を維持します。

正定
正定とは八正道の正定です。
坐禅をして集中力を高め、三昧の境地に達することである。三昧境に入ると人間特有の偏見的認識パターンから抜け出すことができ、真理の世界を体験することができます。これを見性体験といい、この体験によってのみ悟りは開けます。
坐禅は絶対に1日も欠かさずに毎日必ず最低でも45分以上することが要求されます。
臨済禅では効率よく三昧に入るために公案という問題をもちいます。

更に詳しく学びたい方は、悟りについてと悟りに至る方法についてを小説にしましたのでご参照下さい。
http://ncode.syosetu.com/n8482cu/


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